国際間取引における交渉 international transaction

社会人講演会「国際間取引と異文化理解」

軌跡 6「希望」


ビジット・ジャパン・キャンペーン


私の家庭環境が変わってからというもの、娘たちと出来るだけ一緒にいたいという思いもあり、会食などは断るようになった。周りは、そんな私を見ながら、家事が一番大変だろうと思っている人が多かったように思うが、一番困ったのは相談相手がいないこと、それに尽きた。私と同性である男親は仕事に没頭し、それ以外のすべてを奥様に任せっきりにしている人が多いため、男親で相談相手になれる人は見つからなかったのだ。その一方、奥様方は女性同士の情報交換も盛んで、私はそこに一筋の光を見出したものの、これは異性である私は中々入れない様相で、私は唇を噛む日が続いた。八方塞がりとはこのことかと思った。そうした中、紆余曲折をたどりながらも時は過ぎていき、私の通っていた筑紫丘高等学校の同窓会総会・懇親会で、我々の学年が当番幹事を務めることになった。2012年のことである。この頃、スクール名を、オリエンタルスクールからオリエンタル外国語スクールとした。


その同窓会活動のプログラムの一つに社会人講演会があった。それは、同窓会総会・懇親会の行われる土曜日の午前中、自分たちの学んだ校舎に出向き、社会人として培ったものを在校生に伝えるというもので、その社会人講師のひとりとして、私に声が掛けてもらえたのだ。与えられた時間は90分で、題目は、「国際間取引と異文化理解」とした。私は、話題の材料を揃えていき、パワーポイントで作り上げていった。90分の講演会のために、仕事の合間を縫いながらではあるが、準備には1月ほどは掛かったように思う。生徒からの質問コーナーでは、外国語習得に関するものもあったので、それには、外国語で日記をつけることが、費用を掛けずに身につけていく方法だと回答した。生徒にはアンケートが配られていて、そこには「今日から、英語で日記を書きます。」と幾人もの生徒が書いていた。高校時代、将来、母校の教壇に立つことなど考えてもみなかったので、私にとっても貴重な経験となった。


スクールには、「100時間短期集中コース」を設けており、これは、短期間、外国語漬けの状態にすることによって、コミュニケーション力を一気に駆け上げさせることを狙って開講したものである。ある時、フランスに住んでいる日本人女性から問い合わせがあった。現在、夫の駐在に帯同しているが、本帰国により福岡で暮らすことになるので中国語を学びたいのだという。その理由が興味深かった。現地のフランス語スクールでは、スペイン人のクラスメートが多くいて、彼らの話すフランス語がとても上手であり、その時、フランス語講師から、「同じラテン語をルーツに持つスペイン人が上手なのは仕方ない。」と言われたらしい。そこで女性は考えた。それならば、日本語と中国語、共に漢字を使用するので、フランス語を学ぶスペイン人のように、中国語を学ぶ日本人は有利ではないかと。女性は、英語に関しては深い話も出来るとのことで、また、フランスに暮らし始めて3か月で、英語を使わずフランス語のみでコミュニケーションが出来るようになっていたとも話されていた。女性は、将来、復職する際、この中国語を自分の財産にしたいとも。その外国語に対する情熱に、私も心を突き動かされた。


2013年、国土交通省が発行する九州観光パンフレットのタイ語版作成の案件で相談があった。いわゆる「ビジット・ジャパン・キャンペーン」である。これは、単に日本語の原稿をタイ語に翻訳するという話ではなく、タイ人は観光する際、どういう事に関心を示すか、パンフレットをどのような構成したら読みやすいかなど、タイ人の観光に対する視点、パンフレットのディレクションに関するものが主体であった。この種のパンフレットで、タイ語版を制作するというのだから、タイからの旅行者を本気で増やしたいという「ビジット・ジャパン・キャンペーン」への真剣さも伝わってきた。


翌年の2014年になると、この動きがより一層本格化する。タイからバンコク・ポスト(タイの英字新聞社)、タイ国際航空を中心に編成されたタイの一行が福岡入りしたのだ。この一行、「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の一環での来日で、福岡を皮切りに九州を巡るのである。その一行には、放送局からはプログラム・ホスト、プロデューサー、カメラマンが、ハネムーン・サイトからはコピーライター、フォトグラファーが、インターネットでの発信にはブロガーが、その一行の中心には女優がいた。スクールからはタイ語通訳者が全行程に張り付いた。女優は、九州の行く先々で自分の写った写真をSNSに投稿し、その中に印象的な写真があった。手裏剣を自分の顔の前にかざしているのである。きっと、日本の文化を象徴的に表現したのだろう。忍者は、タイ語でも「ニンジャ」と発音するのだ。思い起こせば、九州観光パンフレットの相談がある前年の2012年、タイから日本への入国者は26万人だったが、タイの一行に通訳者が同行した翌年の2015年には80万人へと増加した。その一翼をスクールが少しは担えたのかもしれない。


ワンネス・アジア・リーダーズ・サミット


筑紫女学園高等学校には、異文化コミュニケーション交流会というものがあり、2015年、その企画に参加する機会に恵まれた。それは、外国語を通して異文化に触れあう機会を設けるというもので、その中に、中華圏の文化に触れるというものがあったので、スクールの中国語講師に受け持ってもらうことにした。興味深かったのは、女子校ならではというか、その交流会で、中華圏と関わりのあるお菓子と飲み物も用意して欲しいとの要望を受けたことである。中国語講師と相談し、月餅と中国茶を人数分、用意することにし、茶器は中国語講師が持参した。そして、中国語講師からは、漢和辞典を各自持参するようにとの依頼があったので、生徒さんに伝えてもらうようにした。漢和辞典があれば、自分の名前を中国語で言うこともできるのだ。同校の修学旅行先は、日本、米国、台湾、シンガポールの中から選択できるというもので、台湾、シンガポールは、中国語圏でもあり、それらの国を選択された生徒さんは是非、中国語の交流会に参加して欲しいと声掛けもしてもらった。交流会では、真剣に講義を受けた後、そこかしこの生徒さんが月餅と中国茶で笑顔になっていたので、私の気持ちまでもが和んだ。


時は移り、2016年、外務省が後援する「ワンネス・アジア・リーダーズ・サミット」という国際会議が福岡で行われた。それは、次世代を担う大学生・大学院生がアジア20か国から400名、一堂に会するというもので、10名いる講演者の通訳を、スクールで引き受けた。講演者リストの中に大木トオルさんの名前を見つけた時は、正直言って驚いた。大木さんは、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「カッコマン・ブギ」のカッコマンのモデルである。当時、私は10代だったけれど、宇崎竜童さんがラジオに出演していて、「大木さんはブルースシンガーとして、日本で活動していたけれども、その後、ブルースの本場・米国に活動の拠点を移し、ブルースバンドを結成。ブルースは黒人の音楽という考えが根強くある中、全米ツアーを成功させ、東洋人として初めて米国の永住権を取得した歌手で、それが、ミスター・イエローブルースと呼ばれているゆえん。」という内容だった。


その頃から、大木トオルさんの名前は、私の頭に深く刻まれていた。私は、渡米した話しか知らなかったので、大木さんに日本で会えるとは思ってもみなかったのだ。ましてや、福岡で会えるなんて。場所は、九州大学・箱崎キャンパス。当日、私は会場入りし、大木さんの講演に参加すると、講演のラストには、「スタンド・バイ・ミー」を生で聴く機会に恵まれた。そして、講演終了後、大木さんに私は声を掛け、「少し時間をもらえませんか?」と尋ねると、快諾して下さったので、控室で、私は思いの丈を語った。話をしながら、大人の男の魅力を感じずにはいられなかった。カッコマンは、数十年の時を経ても、カッコマンのままだった。


家庭では、娘たち二人と私との三人暮らしは10年になっていた。私には余裕がまるでなかったので、娘たちには随分と不自由な思いをさせてきた。私の知らないところで泣いた日もあったのかもしれない。そんな私が父親ではあったけれども、娘たちのそれぞれは、中学生から高校生にかけて、料理面では特に力を発揮してもらった。二人とも、和食から洋食まで、あらゆる料理を作ることができ、料理の手際も良かった。一方で、私は、タイ料理、インドネシア料理、そして、中華料理、韓国料理、ベトナム料理、マレー料理、インド料理と、アジアの料理を作ることが多くなった。それは家族で海外旅行にでも行ければ良いのだけど、中々行くことが出来ないので、アジアの料理を作ることにより、家族でアジアを旅している気分になっているだけなのかもしれない。娘たちが将来、幸せな生活を送れることを願いながら、娘たちから、やがて生まれてくるかもしれないその子供たちへ、この想いが伝わると信じて。幸せは、いつも自分の心が決めるのだ。


ビジット・ジャパン・キャンペーン visit japan campaign

国土交通省「ビジット・ジャパン・キャンペーン」|福岡空港